2015年2月1日日曜日

ごはんの行方(小事えむお)

今日はわたしの大好きな東海林さだおさんを真似て書いてみました。当然、足元にも及びませんけど。

ごはんがこぼれたはずなのにどうしても見つからない。
そんなことありませんか。
ぼくはよくあります。
(年のせい)
簡単にそう片付けるのはいかがなものなのか。
少し掘り下げてみる必要があるように思う。

まず、なぜこぼすのか、ここを検証してみたい。
誰でも知っていることだけど、ごはんはツブツブで白い。
問題なのはこの白さなのだ。
さらに問題を深くしているのは、ごはんを入れる食器、茶碗だ。
茶碗は外側にはいろいろな模様が施してあるのに、内側は真っ白なことが多い。
我が家の茶碗もそうだ。
木の葉を隠すなら森の中というのがある。
茶碗はごはんを隠しているのではないか。
ツブツブが把握しづらくなってきた昨今、ごはん側にはミックスベジタブルを見習って、個々の存在を強調するよう進言する。
なぜこぼすのか、第一の問題として視覚問題があることを主張したい。

次はごはんを口に運ぶまでのことである。
視覚問題の都合上、箸を持つ、または茶碗を持つ手の感覚に多くが委ねられることになる。
箸をこの辺に挿して、そっとすくい上げる。
人生の中で数限りなく行われてきたこの作業はまず間違いがあるわけがない。
しかしあるわけがないことがあるのがこの世の常。
すくい過ぎ、すくわな過ぎ、特にすくい過ぎがこぼす危険性を多くはらんでいる。
いうなれば、これは制御の問題。
筋肉問題、神経問題と言えるのではないか。


そして口。
口の中では、消化のための咀嚼と、甘み、酸味、塩味、苦味、うま味の吟味が行われる。
さて、ごはんだが、よく噛めば甘みが増すと言われる。
でもそれはそもそもの味が薄いということの裏返しではないのか。
意識的に味わうことに徹しないことには咀嚼も粗末になるというものである。
子どもたちが小さかった頃は、よく噛むんだぞと言った手前、お手本噛みを心掛けるが、今となっては意識の彼方。
さらに歯がなかったり、入れ歯だったり。
話す時はよく噛むくせに、食べ物はよく噛めず。
これも神経問題とも言えるが、歯磨きが粗末な生活習慣問題とも言える。

このような問題が複合的に作用して、ごはんこぼしが起きるわけであるが、こぼれるごはんを目が捉えている。
重力加速度を身に着けたそのごはんは一瞬のうち消えていく。
しかし確かに落ちていったという残像がある。
(この辺?この辺?まさかのこの辺?)
ところがどうしても見つからない。
目と手を駆使するがどうしても見つからない。
すると
(ひょっとして錯覚?)
ということになり
(そうそう錯覚!やっぱり錯覚!)
何もなかったことになるまであっと言う間。

視覚問題、筋肉問題、神経問題、生活習慣問題の後に根気問題がやって来て、カピカピのごはんが発見されるのには、あとちょっと時間が必要なんです。
結局年のせいってことか。

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